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1950年(昭和25年)、大阪在住の棋士達が待遇面(主に交通関係)で日本棋院に不満を抱き、橋本宇太郎を会長に立て日本棋院から独立し、関西の棋士達は独立派の関西棋院と独立反対派の日本棋院関西総本部に分裂する事になった。
橋本は当時唯一のタイトルであった本因坊位に就いていた為、日本棋院は何としてでもこれを取り返そうと〝カミソリ坂田〟と呼ばれていた坂田栄男(栄寿)を橋本に挑戦させた。
この対戦で橋本は坂田に1勝3敗の崖っぷちにまで追い込まれたが、そこから3連勝で本因坊を防衛。もしこの勝負に橋本が敗れていたら関西棋院は発足直後に解散に追い込まれていただろうといわれている。
現在、関西棋院所属の棋士が日本棋院の棋戦に参加する場合は、院内予選を行いその勝者が日本棋院の予選に参加するという形を取っている。また関西棋院独自の棋戦も行われている。