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1883年7月落成。
11月28日、1200名を招待して落成の祝宴を行う。鹿鳴の名は詩経「鹿鳴の詩」から引用した。(祝宴当日は井上馨の誕生日である。)同じ敷地に専ら外国人との融和交際の為に会員制の東京倶楽部が設けられた。そこでは英語の使用に限られ日本語は勿論、他の外国語の使用は禁止された。また、バーやビリヤードも設備されていた。
外国賓客の来訪が多かったが、鹿鳴館落成以前は迎賓館として準備された建物はなく、明治3年急遽改修した浜離宮の延遼館か、あるいは三田蜂須賀邸を借用するか何れかであった。鹿鳴館の建設は明治13年に着手、途中規模変更(拡大)があり3年がかりで完成した。鹿鳴館では外国からの賓客接待ばかりでなく、それまで11月3日天長節(明治天皇誕生日)の祝賀会行事をはじめ数々の国内行事も行われるようになった。世間の注目を集めた会合としては、夜会、舞踏会、仮装会、婦人慈善会があるが、中でも明治20年4月20日伊藤首相夫妻主催の仮装舞踏会(ファンシー・ボール)は世間の耳目を集め、「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」として非難の声を挙げていた者もこの仮装舞踏会が開催されるや「亡国のきざし」と口を極めて罵った。勝海舟が憂国の感を深め、21か条の時弊を挙げて政府に建白している。その後鹿鳴館は1894年(明治27年)12月に廃せられた。