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1916年(大正5)から貴族院議員。1919年のパリ講和会議には全権西園寺公望に随行し、見聞をひろめた。1937年6月には各界の期待を背に第一次近衛内閣を組織したが翌7月の盧溝橋事件により始まった日中戦争の和平交渉に失敗して総辞職した。1940年に第二次近衛内閣では新体制運動を展開し大政翼賛会を発足させた。また日独伊三国同盟を締結させ翌年7月に対米調整するため総辞職して第三次近衛内閣を組閣したが、東条英機陸相の対米主戦論に破れて総辞職した。戦後東久邇宮稔彦内閣で国務大臣を務めたが戦犯の指定を受け、出頭を命じられた翌日の1945年12月16日荻窪の自宅、荻外荘で青酸カリを飲み自殺した。
墓所・霊廟
12月21日には葬儀が行なわれた。墓は大徳寺にある。靖国神社に昭和殉難者として祀られている。